海上交通工学とは

神戸大学名誉教授  
井上 欣三  

海上交通工学の最終的な目標は、海上交通の安全向上です。
海上交通の安全は、船自体の浮揚性と操縦性と耐航性を保障し、操船者の技能向上を図り、そして、航路・港湾などにおける航行環境の改善を通じて、海難事故をなくすことにより達成されます。

海上交通の安全を高める施策のうち、船自体の性能については船舶工学の分野に委ねるとして、航海学の分野に関しては、研究の歴史的背景からみれば最初は自船1隻を安全に操縦するために必要な操船者自身の知識・技術の向上・強化に主眼が置かれてきました。これを達成するための学問的基盤が『操船論』です。

一方で、海上交通の安全は、船、操船者の個別の性能や技能の改善のみによって達成されるのではなく、船と操船者を取り巻く環境の改善にも目が向けられるべきです。このような観点から、航路・港湾などにおける環境インフラの改善を目標に、これを達成するための学問的基盤として『海上交通工学』があるとみることもできます。

日本では、海上交通工学の研究の取り組みが始まったのは1960年代後半からでした。航路・港湾などを航行する船舶群に着目し、船を点と見做し、点の集合としての海上交通流を統計的に分析する研究が、今日の『海上交通工学』の発展につながりました。また、一船対一船あるいは一船対多船という視点を超えて、多船対多船という視点から、航路・港湾における場の交通流という枠組みのもとで、海上交通の安全問題に研究の視野をひろげた点も海上交通工学の大きな特徴であるといえます。

しかし、海上交通工学が目指した研究成果の工学的フィードバックとしての航路・港湾設計への応用は、船を点として扱うことから、また、そこには、操船者という人的要因を含まないことから、時にその成果が実務関係者に容認され難い面がありました。その意味から、操船者の意識や技術を、海上交通実態調査によって明らかになった海上交通現象をもとにモデル化して記述し、これを海上交通流シミュレーションや操船シミュレータのシナリオに反映させる手法が導入されました。この海上交通流シミュレーションや操船シミュレータの技術は、コンピュータの性能の進展と相俟って著しく発展し、いまや海上交通工学になくてはならない研究ツールとなっています。

海上交通工学は、現場と一体の実際的な学問であり、社会ニーズと密接に結びついています。海難事故を減らすため、操船者の心理的負担を軽減するため、社会の求める安全対策を現場から学び取り、安全評価を行い、有効な施策を現場へ返すという社会還元システムこそ、海上交通工学研究の根幹です。海上交通工学の研究に携わるものはこの視点を忘れてはなりません。

最後に、海上交通工学の行く末に目を移せば、海上交通の安全は、事故が起こってから手だてを講じるにとどまらず、交通輻輳の緩和や航路・港湾における水域施設の設計計画といった安全施策を通じて予防安全を実現するものでなければなりません。そこには、『海上交通工学』というテクノロジーを『海上交通安全管理』というマネジメントの世界に融合させる新しい展開の姿を見いだすことができます。

下図は、海上交通工学を基盤とする海上交通安全管理のながれをフローチャートで示しています。このフローの手順を以下の(1)~(5)に解説しますが、フローを構成するプロセスのステップごとに海上交通工学において解決しなければならない研究要素が整理できます。

  1. (1) 海上交通実態調査を行って海上交通現象を把握するとともにその海域に潜む危険要因を分析し、解決すべき課題を設定する。
    (
    2) 調査された交通現象の実態と分析データに基づく要因の抽出結果は安全対策案の企画・立案に活かされる。
    (
    3) 海上交通実態調査によって明らかになった当該水域の特徴的な海上交通現象をモデル化して記述し、これを海上交通流シミュレーションや操船シミュレータのシナリオに反映させる。
    (
    4) 海上交通流シミュレーションや操船シミュレータ実験の出力過程に別途開発された評価モデルを適用して対策案導入による安全性向上効果を予測評価する。
    (
    5) 費用対効果分析または別途設定された評価基準のもとで対策案実施の可能性を検討する。許容不可の場合は代替案の手直し・見直しを行う。

これからの海事社会には、船舶が安全に航行できるためにはどのような航路・港湾施設設備が必要で、どのようなルールのもとに、どのような海上交通流を形成すればよいかを考え、海上の安全をより高めるための施策を提言することによって社会に寄与する姿勢が求められています。そのような時代に向けて海上交通工学は、この分野の研究に最も相応しい学問ツールを与えるものです。現在では、海上交通工学の研究成果が、新しい港湾計画、水域施設設計、海上架橋建設、海上交通管制、航路体系の設計、法律やルール作りなどに役立てられています。

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図 海上交通工学と海上交通安全管理研究の融合のながれ(2)

 

※本稿は、以下の著書からの抜粋を含め個人的見解を著述したものです(1)(2)  
(2009.5.17)   

〔参考資料〕
 (1) 「海上安全管理研究」
    神戸大学海事科学部教授井上欣三博士還暦記念出版、2006.3
 (2) 「海の安全管理学」
    井上欣三著、成山堂書店、2008.10

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